はいさい、佳人(@kanato_tomoyose)です。僕のおじいちゃんは元々パティシエで昔は基地の中の病院でケーキを作っていたとか・・・そこを退職した後は移動パーラーを始めとても人気なバーガー屋さんだったようです。
そんなおじいちゃんが亡くなって遺品整理をしているときに変色して黄色くなったレポート用紙が4枚出て来ました。よく見ると【戦争体験】と書かれているではありませんか!
この4枚はおじいちゃんが戦争で体験したことがリアルに書かれています。これは間違いなく家宝となるのですが、戦争を知らない子供や大人が増えている現代の人たちに知って欲しいと思い、今回書かせていただきました。
これを読んで是非戦争の恐ろしさや、もう戦争を起こしてはいけないと心から願う人が増えていって欲しいと思います。この体験記をたくさんの方々にシェアして頂けると幸いです。
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私は昭和20年02月、浦添尋常小学校へ父親と共に召集された。翌日から嘉数小学校へ石舞台の独立歩兵第13大隊に配属された。
他村からも防衛隊員が私たちの小隊に動員され、約15名が一つの班となって、斉藤軍曹外6名の兵隊と共に行動し、作業に従事することになった。
米軍が北谷方面に上陸した時点から、軍曹達兵隊は嘉数高台の陣地へ、私達防衛隊は嘉数の自然壕へと別れて行動した。
戦況はいよいよ激しさを増し、負傷者も死体に多くなって行った。
私達隊員は担力で負傷兵を嘉数から浦添前田での野戦病院患者運びに従事、一夜のうちに3、4回も往復、その間艦砲射撃は一時も止むこともなく夜になると迫撃砲と砲撃は激しくなるばかり次々と防衛隊員も兵隊と共に負傷者・死者が出ていった。
浦添前田で、私と同じ班の防衛隊員も射たれていった。私が射たれたのも前田の野戦病院の近くの丘の壕の近くだった。
敵は前田にも陣地が有ることを知っているのか、夜になっても迫撃砲は激しさが増すばかり、3発目の砲弾の破片が私の肩に当たったのである。
射たれた瞬間、バットで思い切り殴られた感じで、右手がだらりとぶら下がったと思った時、傷口から背中へあたたかい血が流れるのを感じ射たれたなと思いながら壕の入り口目掛けてぶらぶら歩きながら避難したことは覚えていますが、気が付くと見知らぬ一等兵が私の肩の傷口を包帯をして、緑色の三角頭巾で首から右腕を掛けてくれていた。
しばらくして誰かが私の枕元で大声を張り上げてわめき散らしていた。これこそ叫喚地獄と言うのでしょう。
先きの隊員も両足のふくらはぎを破片でもぎ取られ、声にならない声で泣き喚き散らしていたが、死ぬ間際になれば断末魔の叫び声をあげながら発狂するのだと私は思った。
前田部落の戦闘もいよいよ陥落する時が来たのだ。歩ける負傷兵は独行患者として首里へ移動せよとの命令により、私は見知らぬ兵隊3名と共に首里の野戦病院へ移動。
重傷で歩けない患者達は壕と共に爆破され生き地獄そのものである。忘れ去られる可哀想な運命であった。
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